MY TOWN  金沢城物語_歴史 

 加賀百万石を象徴する金沢城

金沢城の歴史

金沢城


前田家家紋 梅鉢
加賀藩家紋 梅鉢


兼六園
歴史

 金沢城の前身は、いわゆる加賀一向宗の本拠尾山御坊です。
 かつてこの地では加賀一向一揆が支配権を持っていて、彼らは城造りの寺院のであった尾山御坊(金沢御堂)を建設しました。寺とはいえ大阪の石山本願寺と同じく堀や石垣、城壁をめぐらした城とも呼べる建築物でした。
 武装化した一向宗はここを本拠に確固たる勢力を誇っていましたが、天正八年(一五八〇年)織田信長の部将柴田勝家によって滅ぼされて尾山御坊には勝家の家臣佐久間盛政が入城しました。

 盛政は尾山御坊を拡張して尾山城を築きましたが、天正一一年豊臣秀吉により柴田勝家が滅ぼされた際、盛政も敗死したので戦後秀吉は前田利家を尾山城の領主としました。
 秀吉の出したバテレン追放令により領地を失ったキリシタン大名高山右近を前田利家は呼び寄せて、尾山城の大改修を行い、名前も金沢城としました。
 その工事は二代利長、三代利常の代まで費やして、ついに前田家百万石にふさわしい雄大な規模の金沢城か完成しました。

 藩祖の利家は幼名を犬千代といい織田信長に仕えました。天文二〇年(一五五一年)一四歳の初陣以来大小無私の合戦に功をたて織田家中でも屈指の豪将として知られていて、若いころから秀吉と仲がよかったので、秀吉が天下を掌握すると重用され、徳川家康とともに五大老のひとりに任じられています。秀吉の没後は秀吉の遺児秀頼を守って徳川家康の増大する勢力に対抗しましたが、慶長四年(十五九九年)に病没しました。

 天下を狙う家康にとって利家の死は千載一遇の好機でした。世上には家康が前田家討伐の兵を起こすに違いないという噂が流れていました。前田家の前途に心を痛め、この危機を無事に収めたいと頼った利家の正室芳春院は、翌慶長五年自ら人質となるため徳川家の本拠江戸へ向かいました。前田家は芳春院の献身的な努力によってこの危機を無事に切り抜けることができ、また関ヶ原合戦にも事なきを得たのでです。

 利家死後、加賀東部と越中の合計83万石を領する利長と、能登に21万石を領するその弟利政に分けられますが、1600年関ヶ原の戦いで両者は東軍と西軍に分かれて戦い、西軍が破れ利政はその領地を利長に没収されました。加賀藩は加賀、能登、越中を治める大名となりその石高は百万石を超えて、江戸幕府に次ぐ大大名となりました。
国宝 石川門 河北門(一の門)

 慶長八年、家康によって江戸幕府が開かれると、前田家は加賀藩として従来の一一九万二〇〇〇石を安堵されました。しかし外様筆頭の大大名なので常に幕府から有形無形の圧力が加えられましたが、前田家はあらゆる手段を尽くして幕府の疑心を解き、百万石の大名として家系を守りました。

 三代藩主利常は、徳川二代将軍秀忠の二女珠姫を室に迎えましたが、その珠姫が元和九年(一六二三年)他界すると、直ちに大伽藍の天徳院「夫人の法名に起因」を建ててその菩提を弔いました。境内二万坪、寺領五〇〇石という格式からみても、徳川家への配慮が窺えます。
 また利常は鼻毛を長く伸ばした愚かな顔つきのままで江戸城に出仕するので、家臣が見かねて注意すると、判官は笑いもせずに「この鼻毛が加賀百万石を支えているのじゃ。」と答えたそうです。つまり判官は幕府に安心感を与えるため故意に愚かしさを装っていたそうです。

珠姫菩提寺 『天徳院』